続・徒然草子
童子の粋狂話 徒然に・・・
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DATE: 2007/03/06(火)   CATEGORY: 徒然に・・・
『山の花』と『尊厳』
ご存知の方も居られると思いますが、
私、母が3人おります。
正確には「おりました」なのですが、どの御母様もご健在だと思います。
家庭には恵まれておりませんでした。
そんな私が小猿の頃一緒に暮らしたのが、寺の敷地の離れに間借していた祖母でした。
九州の・・・とてつもない山奥でした。
今では廃線で通勤時間帯にバスが走るだけとか・・・

同じ年頃の友達のない私はどこに行くのも祖母と二人きりだったのです。

山にもよく散歩に連れて行ってもらいました。
散歩の途中、綺麗な花に手をやると、祖母は決まって言いました。

「これ、小猿、山の花を持って帰ってはつまらんよ」

「つまらんよ」と言うのは文字通り「おもしろくない」と言うことですが、
この場合は「良くない」と言う意味に「止めておけ」という気持ちが多分に込められた方言です。
私は、どこの花だって千切って持ち帰って良いはずはないのに、
山の花の時にだけ必ずそう言う祖母が可笑しかったのを覚えています。

可笑しかった記憶があるので、その言葉は時々思い出したりします。
そして・・・

山の花は『山』で咲いているからこそ美しい。
『山の水』『山の風』『山の土』があるからこそ美しい。
『山』の自然は過酷で、それが為に咲くことが出来ない花もあるかもしれない。
それでも咲き誇り、種を残し、季節が廻ってはまた咲く花に敬意を表するべきであろう。

そんな事を思ったりもします。


そして、そう思うとき、
人もまた・・・
様々だと思うのです。



その場、その環境でこそ生き生きと生きる人も居て・・・
それは過酷な環境であったり、命の長さだけを考えると、
時に、哀れであったり・・・
時に、不憫であったり・・・
思わず、千切って持ち帰りたくなる時があるかも知れません。

けれども、それが必ず良い事だとは限らないのではないか・・・?
そんな事も思います。

大義名分の下、文明を押し付けるあまり、文化を破壊し、
環境とそこに住む人の能力を変えてしまってはいないのか・・・と。
衣服を整え、雨風を凌ぎ、闇夜を照らす灯りを与えることが
必ず良いのだろうか、と。
何が『良い』で何が『悪い』で、それは誰が決めるのかと。
多くの命が亡くなる事を只単に『無駄なこと』と捉えてはいないかと。

『死』から学ぶこと、はおろか、その『死』の持つ意味さえ知らぬ事は
『良い』ことなのかと。



山の花が山で美しく咲くように
人もまた、それぞれの咲くべきところで
美しく逞しく、そして儚く、潔く・・・


久々に祖母の言葉を思い出し
今日はふと、そんな事を思ったのでした・・
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COMMENT

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● 「つまらんよ」は・・・
緑Mama^^ | URL | 2007/03/06(火) 20:50 [EDIT]
「面白くない」なのですか?雪仙童子様・・・。
私はてっきり、「いけないよ~」と解釈しました^^;
私の住んでいるところの方言かなぁ?
それとも、私だけの方言(自分だけの言葉という意味です^^;)でしょうか(;´Д`)

山にあるものは、山にあるから美しいと私も思います。
昨今では園芸品種の夥しい改良が進み、
本来のものとは違った品種では?というものが増えております。
私の母がよく言うのですが、
「この(我が家の庭)土地に合わない(育たない)ものは植えない。」
無理やり植えても可哀想ということでしょうか?
その花や木に合った環境で育つべきだということでしょうか?
変に過保護に育ててはいけないと・・・。
自分の力で、その置かれた環境に対応できれば別ですが・・・。
無理強いはいけないと・・・。
山に咲く花を持って帰って植えても、枯れてしまいます^^;
それなら、やはり、お祖母様の仰るとおり、
「これ、小猿、山の花を持って帰ってはつまらんよ」 なのでしょうね。

人が生きる環境、そうですね、仰るとおりだと思います。
『死』の持つ意味、考えてまいります・・・。
無駄なことでないことだけは確かですね。
● こんにちは
万有引力 | URL | 2007/03/08(木) 17:54 [EDIT]
僕も同感です。
以前読んだ京極夏彦の小説にも同じような
件がありました。
「山に分け入れば入るほど
自分の矮小さを感じ、目に見えない山の巨大な
気に恐怖する・・・。その途方も無く巨大な【山】とは
小さな花や小石、苔や朽ち果てた樹木などなど
すべての気の集合、すなわち何気なく咲いている
名も知らぬ花にも、恐怖した同様の【山の神】が
宿っている」って感じの文でした。
自然に対して、「美しい」だけしか感じなくなるのは
感性がかなり自然から遠のいてる証拠ですよね。
僕は、山も海も川もみな、美しいと同様に
恐ろしいです。
● 本当にそうですね
しゃらら | URL | 2007/03/10(土) 22:44 [EDIT]
ご無沙汰していました。

私は絵手紙に山野草をよく描いたりします。
山野草ブックを見て描くのですが、素朴で可憐な山野草は大好きですね。
山野草は可憐なのにどこかしら強さをもっています。
花壇や鉢の中で育つ花よりずっと強いのだろうと思います。
そしてそんな山野草は、自然の中にあってこそその美しさがきわだちます。
素朴な美しさです。
そんな美しさに心が惹かれます。

だからといって花壇の花がだめだというわけではありませんね。
それはそれで美しい。
いいとか悪いとか美しいとかそうでないとかは、人が勝ってに決めているだけのことですね。
人の生き方もそう。
人が勝ってに良し悪しを決めていることが多いものです。
自分が自分らしく生きていける生き方が一番美しいですよね。
● 緑Mamaさま
雪仙童子 | URL | 2007/03/11(日) 10:45 [EDIT]
おはようございます。
考えてみれば、自然のものは(本来、『人』もそうなのですが)
自分の身の丈や「分」というものを、よく判っていて、
弁えているものだと思いました。
山の花は、街で咲こうとは思いもしていないのだし・・・
そこで、咲き続けるためだけの工夫や進化はしているのでしょうが、
他で咲くための野心は持ち合わせていないのかもしれません。
『人類の進歩と調和』
とえも懐かしいスローガンを思い出しました。
人類は闇雲に「進歩」の為だけに走りすぎているようですね^^
● 『山の神』
雪仙童子 | URL | 2007/03/11(日) 10:54 [EDIT]
万有引力さま、おはようございます。
山の中で・・時折かんじる「怖さ」はあらゆるものの気の集合体
『山の神』だったのですね。
子どもの頃、1人山に入ると、曲がりくねった山道のその先から
巨人がやってくる恐怖を何度か感じたことがありました。
多分に怖がりの小心者だからかもしれませんが、
今でも、自然の中で1人いるような時は、礼を失せず、なるべく大人しく過ごすようにしています^^;
● しゃららさま
雪仙童子 | URL | 2007/03/11(日) 11:47 [EDIT]
おはようございます。
『猫柳』のぷっくら感は今も心に残っています。
絵手紙、購入したくなりました^^;

苛酷な環境よりも、人の所業。
「山の花」にとって本当の脅威は、気まぐれな行為かもしれません。
とかく、押し付けることは出来ても、見守ることが出来ぬ事は
多々目にしますから・・・^^;
どんな環境や状況も、それ以外のものにはわからぬこと。
見守ったり、受け入れたり、
実はもっとも勇気や強さがいることかもしれませんね。
その「勇気」や「強さ」も見守れているのかも知れないな、
と思ったり・・・

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